UFOオカルト伝説の謎 
02.
ジョージ・アダムスキーの空飛ぶ円盤同乗記(後編)

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2017.12.28

George Adamski

© G.A.F. International/Adamski Foundation
P.O. Box 1722 – Vista, CA 92085 U.S.A. 
www.adamskifoundation.com
 

UFO襲来は核戦争への警告
55年、ジョージ・アダムスキーは『空飛ぶ円盤実見記』の続編『空飛ぶ円盤同乗記(Inside the Space Ships)』を著し、両書とも世界的なベストセラーとなった。続編のなかで、彼は、金星人〈オーソン〉と再会するとともに、火星人〈ファーコン〉や土星人〈ラミュー〉とも会い、彼らと円盤に乗って巨大な母船を訪ね、月の裏側や他の惑星にも招かれた、と記している。そればかりか、マスターと呼ばれる指導者と会見し、人類平和のための宇宙哲学を授けられたという。アダムスキーは、会見した宇宙人たちを〈スペース・ブラザーズ〉と呼び、彼らから聞き、学んだ教えを説いた。当時から、アダムスキーの奇想天外な話には批判も多かったが、すべてが彼の創作であったとしても、その後のUFOブームのある種の方向性をもたらしたのは確かである。


アダムスキーは、1891年に生まれ、若い頃から神秘主義や東洋思想に傾倒し、30年代にはカルト集団〈チベットの高貴な騎士団(Royal Order of Tibet)〉を率いていた。49年には『宇宙の先駆者(Pioneers of Space)』というSF小説を発表したが、それは、ゴーストライターによるもので、内容は『空飛ぶ円盤同乗記』と酷似している、とのちに指摘された。また、アダムスキーが説く宇宙人像は、1951年公開の映画『地球が静止する日(The Day the Earth Stood Still)』に登場する〈宇宙人クラトゥー〉によく似ている。そればかりか、宇宙人が核戦争の危機を警告するストーリーも、映画とそっくりだった。その点でもアダムスキーには、いかがわしさがつきまとっている。

Michael Rennie, Patricia Neal, The Day The Earth Stood Still

1953年、アメリカ空軍のUFO調査組織〈ブルーブック(Blue Book)〉を指揮するエドワード・ルッペルト大尉(Edward Ruppelt)が、パロマーガーデンズ(Palomar Gardens)でアダムスキーが営むレストランを訪ねている。ルッペルト大尉は、私服でアダムスキーの講演に参加し、「彼は優れた詐欺師で、有名な興行師P・T・バナームに似ている」と評した。〈バナーム〉とは、19世紀の米国で、奇抜なサーカスショーや見世物業で成功した人物である。アダムスキーは、まさにやり手の興行師のようだったのだろう。

 
有名な写真のアダムスキー型UFOは、ランプや掃除機などのパーツを組み合わせた模型、ともいわれている。また、最も重要なデザートセンターでの金星人〈オーソン〉との会見についても疑問点が多い。もともと、アダムスキーは、彼の側近たちとともに6人で会見に向かったが、葉巻型の宇宙船を目撃すると側近たちは立ち去り、約1時間後に彼を迎えに戻ったそうだ。しかし、のちに側近たちは、そこでは何も見なかったし、アダムスキーの会見はあらかじめ用意されていた、と明かしている。また、アダムスキーのレストランで働くジェロルド・ベイカー(Jerrold Baker)の妻イルマ(Irma)が、嘘をついているのではないか、とアダムスキーに詰め寄ると、彼は「大衆に自分の哲学や教義を伝えるためには裏口も必要なんだ」と諭したという。実際、これこそが彼の本心だろう。
 
当時から、UFO専門家のあいだでは、誰もアダムスキーを支持していなかった。それにも関わらず、マスコミは、アダムスキーの突飛な発言を面白おかしく報じたため、アダムスキーの話術の巧みさ、人間的な魅力に惹かれてしまう米国民が続出した。UFOに乗った宇宙人〈スペース・ブラザー〉は、「核戦争の危機を人類に伝えるために地球に来ている」という説明は、まるでSF小説のようだが、わかりやすさゆえに大衆の心を掴んだのも事実だ。

 

コンタクティたちは、その後も次々に現れ、ある種の宗教のような影響力を及ぼすようになった。1954年には、惑星クラリオンから来た美女〈オーラ・レインズ〉と会見したという、トルーマン・ベサラム(Truman Bethurum)、アランという宇宙人の円盤に同乗したというダニエル・フライ(Daniel Fry)がそれぞれ著書を発表した。55年にはオルフェオ・アンゲルッチ(Orfeo Angelucci)が円盤に乗って宇宙から地球を眺め、59年にはハワード・メンジャー(Howard Menger)が月面に降りたった、と体験をそれぞれの著書に綴っている。

 

アダムスキーを含め、コンタクティによる情報の共通点は、以前から宇宙人と交信しており、宇宙人は、皆、男性であれ女性であれ、美しく理知的で聖人のように振る舞い、人類の戦争を終わらせるために平和のメッセージを届けてくれる存在である点だ。そして、コンタクティたちは、メッセージを人類に伝えるために選ばれたともいう。そんな出来すぎたストーリーにマスコミや大衆が飛びつき、UFOと宇宙人は強い関係で結びついたのである。

 

Adamski Scout Ship, Ikeda
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アポロ計画とアダムスキーの死
宇宙人との出会いを主張するコンタクティの急増は、UFO地球外仮説を最初に唱えた航空ジャーナリストのドナルド・キーホーにとっては、厄介な問題だった。なぜなら、キーホーは、米国政府が意図的にUFO存在の事実を隠蔽している、と疑い、軍関係者や科学者の賛同を募り、米国議会の公聴会でUFO情報をすべて公開させる、という目的を持っていた。しかし、総じてコンタクティは、高次の存在としての宇宙人たちと接触し、〈UFO教〉とでもいうべきカルト的世界観をつくり上げて信奉者を獲得していた。その現象こそが、UFOそのものが怪しくていかがわしい、という印象を世間に与える要因となったのだ。

 

それでも、1950年代、米軍関係者を始め、大勢がUFOを目撃した、と主張したのは事実であり、事実誤認であったとしても、不思議な体験に世間が戸惑っていたのは確かだ。そんな時勢のなか、米空軍はUFO調査組織を設立し、マスコミは宇宙人飛来の可能性や政府陰謀説を広めた。そんな風潮に便乗するように、コンタクティは、カルトなムーブメントを仕掛けた。

 
さらに、この風潮に、宇宙人と精神的に交信する、つまり、〈チャネリング〉によって宇宙人のメッセージを受け取った、と主張する人物たちも便乗した。そのなかで最も代表的な人物は、ヴァン・タッセル(Van Tassel)だ。タッセルは、航空技師を経て、カリフォルニア州ジャイアント・ロックにある飛行場の跡地を借りてカフェを営んでいた。彼は、独自の神秘主義をベースとした結社をつくり、〈十二人評議会〉と称する弟子たちに囲まれて、宇宙とのチャネリングを繰り返した。1951年、タッセルは〈惑星シャンチャ〉の宇宙ステーション司令官、アシュターからの精神的コンタクトをきっかけに、数々のメッセージを受け取った、と主張した。
 
1954年3月、タッセルは、彼のカフェがあるジャイアント・ロックで、史上初となる〈ソーサリアン(円盤人)〉のための巨大集会を開催し、5000人以上の観客を集めて大成功を収めた。そのような集会は、ジャイアント・ロックばかりでなく、他の場所でも、たびたび開催されるようになった。コンタクティたちが講演の機会を得ただけでなく、彼らの著書、UFO写真集、記念品などを販売するブースが会場に並んだ。そういった集会は、UFO信奉者たちのお祭りと呼んでもおかしくないような盛り上がりをみせ、信奉者たちが直接コンタクティと出会うチャンスが増えた。それと同時に、民間UFO研究団体も急成長を遂げる。52年には、CSI(民間円盤調査会、Civilian Saucer Intelligence)、IFSB(国際空飛ぶ円盤局、International Flying Saucer Bureau)、APRO(空中現象調査機構、Aerial Phenomena Reserch Organization)などが続いて設立された。タッセルのイベントの成功を経て、それらの活動も盛んになっていく。

 

一方、1954年、米空軍は、前年のCIAによる〈ロバートソン査問会〉でUFO調査組織〈プロジェクト・グラッジ〉による成果が乏しい、という批判を受け、プロジェクト名を〈ブルーブック〉に改めて組織を再編した。〈ブルーブック〉は、UFO目撃情報の収集を続けると同時に、安全保障上の最優先事項である〈ソ連からの脅威〉を見落とさないよう調査を徹底し、UFOに過度な恐怖や妄想を抱いた国民のあいだで事実誤認や勘違いが拡がらないよう、未確認飛行物体への対応についての広報活動も要求された。
 

56年、最も有名なUFO問題の民間活動家になっていたドナルド・キーホーは、同年初頭に設立されたばかりの民間UFO研究団体であるNICAP(全米空中現象調査委員会、National Investigations Committee On Aerial Phenomena)に積極的に参画し、翌57年、推薦により会長に就任した。彼は、全米のUFO信奉者たちの結集こそ、米国政府にUFO情報開示を要求するのに欠かせない条件だ、と考えていた。全米最大規模の民間UFO研究団体の会長に就任するのは、彼の悲願であった。また、彼は、会長就任を機に、長らく煩わしく思っていたコンタクティたちへの本格的な攻撃を開始した。NICAP会長として、キーホーは、コンタクティの先駆けであるジョージ・アダムスキーを始めとする8人の有名なコンタクティに、公式の質問状を送りつけた。コンタクティたちから返答はなかったが、彼らにとっても、方向の転換を迫られる時期が訪れていたのだ。

 

方向転換を迫られた理由のひとつは、米空軍のUFO調査組織の指揮官として、プロジェクト・サインからブルーブックにまで長年関わってきたエドワード・ルッペルト大尉による『未確認飛行物体に関する報告(Report On Unidentified Flying Objects)』(1956)の出版だ。米空軍によるUFO調査は機密扱いであったが、定年を迎えての退役をきっかけに、ルッペルト大尉は、秘密を個人的な見解としていち部公開した。それが真摯なUFO研究への振り戻しのきっかけとなった。また、ルッペルト大尉は、UFO信奉者ではないが、UFO目撃の現場に赴き、目撃者からの証言をもとに調査報告書を作成しており、彼の著書はUFO議論においても最も信頼に値する資料になった。 

 

もうひとつの理由は、より大きな衝撃に米国全体が動揺した〈スプートニク・ショック〉だ。1957年10月4日、ソ連が人類初の人工衛星スプートニクの打ち上げに成功した。これは、核兵器を保有するソ連が高度なミサイル技術を確立し、米国本土への核ミサイル攻撃が可能となったことを意味していた。翌58年、米国は、NASA(アメリカ航空宇宙局)を設立した。ここから米ソ宇宙開発競争の火蓋が切られ、人類の宇宙進出が現実となった。

 

このふたつの出来事から、コンタクティは、自ら主張する宇宙人との会見が時代遅れになったと感じていた。実際、アダムスキーは、海外に活路を求め、59年1月から6月にかけて、ニュージーランド、オーストラリア、イギリス、オランダ、スイスなどで講演した。61年、彼の3冊目となる『さらば空飛ぶ円盤(Flying Saucers Farewell)』が出版されるが、同書の内容は、新たな円盤搭乗の体験ではなく、彼が独自に解釈した、壮大なスペースブラザーの宇宙哲学だけだった。

 

1961年5月25日、若くしてアメリカ大統領となったロバート・ケネディ(Robert Kennedy)が、10年以内に人類を月に送る、と宣言して、アポロ計画がスタートした。人工衛星スプートニク、同年のガガーリン有人宇宙飛行で、宇宙開発においてソ連に先を越されていた米国は、国家の威信をかけて、巻き返しを図ろうとしたのだ。アポロ計画以降、宇宙についての現実的なデータが収集され、他の惑星に、人間と同じような宇宙人がいる可能性も完全に否定された。もはや、スペースブラザーと会見したと主張するアダムスキーの著作は、彼の信奉者以外には、顧みられなくなった。

 
Adamski cigar ships ufos

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Alien Bases on the Moon
 

それでも、コンタクティに惹かれる信奉者がいなくなったわけではなく、アダムスキーの影響は世界中に及んでいった。65年、アダムスキーは突然の心臓発作でこの世を去ったが、その役割を引き継ぐように、ヨーロッパから新たなコンタクティたちが登場する。

 

1950年代、ジョージ・アダムスキーは、宇宙人との会見を主張し、UFO問題をひとつのエンターテインメントに仕立て、間違いなく、いち時代を築いた。会見したスペースブラザーのオーソンが、流行りのSF映画の登場人物に似ていようが、側近に造反され内部情報をリークされようが構わない。アダムスキーは、最後まであざとい見世物興行師のような態度で、抜け目なく、世間に話題を提供し続けた。死を迎える2年前、アダムスキーは宇宙人の招きでローマ法王ヨハネ23世と密会し、黄金のメダルを授けられた、と報告し、そのメダルを見せびらかしていた。

 

まったく懲りないこの感じ、社交性とユーモアに溢れたコンタクティたちは、新宗教のようにいち部の信奉者を魅了し、その後も長く生き続けたのである。

 
Adamski Orthon

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